はまかだとは、「はまってけらいん かだってけらいん」(仲間に入って、話しましょう)の頭文字をとった略称です。
立ち話やご近所でのお茶っこ飲み、趣味仲間での集まりなど、何でも「はまかだ」と言えます。
そんな、身の回りで日常的に行われている、ありふれたものに、どんな価値があるのでしょうか?
アメリカの臨床心理学者のカール・ロジャーズは「人は話すことによって癒される」と述べています。
ご近所の集まり(はまかだ)が楽しみで「行くと元気になる」という人もたくさんいます。
「病は気から」と言いますが、元気でいることが、健康であるための1番のクスリかもしれません。
ご近所での集まりも「はまかだ」のひとつです。
そこで、ご近所付き合いを例に、健康以外のはまかだのメリットを考えてみましょう。
例えば…
・詐欺や不審者、勧誘の情報を共有し、被害を防止できる。
・災害時等に自力での避難が困難な人が、どこに住んでいるのかを把握していれば、救助隊員にいち早く知らせることができる。
実例として、阪神・淡路大震災で、倒壊家屋の下敷きになった人の8割以上を助け出したのは、家族やご近所の人たちでした。
そのほかにも、ママ友同士の子育てに関する情報交換のように、人と人とがつながることで得られることは、全て「はまかだ」のメリットと言えます。
「困った時はお互いさま」といいますが、助けられることだけでなく、人を助けることも人と人のつながりにとって大事であると言われています。
こうしたお互いに助け、助けられる、「お互いさま」の関係は、人と人との「信頼」を深くしていきます。
そして、その「信頼」が人と人との「つながり」を強くし、その「つながり」が「お互いさま」の関係を、より良いものにしていきます。
東日本大震災以降、「絆」という言葉を目や耳にするようになったと思いますが、この言葉には二つの読み方があります。
絆……
〈きずな〉人と人との離れがたい結びつき
〈ほだし〉人の心や行動の自由を縛るもの
「ほだし」の意味を見ると、何となく「面倒くさい」といった、悪い印象を覚えるのではないでしょうか?
しかし、「ほだし」が人と人とのつながりに必要なものだから、「きずな」と同じ漢字が使われるようになったのかもしれません。
例えば、面倒臭いと思われがちなご近所付き合い。
地域の催し物があれば、強制ではないものの「行かなければ」と思うものです。
それが「ほだされている」ということです。
しかし、「ほだし」から始まったご近所付き合い、人間関係も、いつしか信頼関係が生まれ、なくてはならない「きずな」になります。
はまかだのメリットにもあるように、ご近所付き合いから得られるものは、目に見えないものから見えるもの、小さなものから大きなものまで沢山あります。
絆」という字は、糸の半分と書き、「わたしの糸の『半分』を誰かが持っている状態」を表しています。
もし、人と人をつなぐ紐のことを「絆」と呼ぶのであれば、それは「ほだし」と「きずな」という、2種類の糸で紡(つむ)がれたものだと言うことができるのかもしれません。
元気がない人や、外へ出る機会が少ない人に「声をかけてあげた方がいいのかな?」と感じたらその時は「はまってけらいん かだってけらいん」と声をかけあってください。
また、いつも元気をもらえる場所がある人は、「はまってけらいん かだってけらいん」の旗を置いて、できるときでいいので、その場所で「はまかだ」することが大切なことであることを思い出してみて下さい。
支えるときも、支えられるときも、そこが居場所となります。
たくさんの人と関わりを持ち、楽しく笑うことが、心と体にとても良いことだと周りに広がっていけば、陸前高田は、いまよりも、もっと元気に楽しく過ごせる笑顔溢れるまちになっていくことでしょう。
「ほだし」の意味を見ると、何となく「面倒くさい」といった、悪い印象を覚えるのではないでしょうか?
しかし、「ほだし」が人と人とのつながりに必要なものだから、「きずな」と同じ漢字が使われるようになったのかもしれません。
例えば、面倒臭いと思われがちなご近所付き合い。
地域の催し物があれば、強制ではないものの「行かなければ」と思うものです。
それが「ほだされている」ということです。
しかし、「ほだし」から始まったご近所付き合い、人間関係も、いつしか信頼関係が生まれ、なくてはならない「きずな」になります。
はまかだのメリットにもあるように、ご近所付き合いから得られるものは、目に見えないものから見えるもの、小さなものから大きなものまで沢山あります。
絆」という字は、糸の半分と書き、「わたしの糸の『半分』を誰かが持っている状態」を表しています。
もし、人と人をつなぐ紐のことを「絆」と呼ぶのであれば、それは「ほだし」と「きずな」という、2種類の糸で紡(つむ)がれたものだと言うことができるのかもしれません。
ノーマライゼーションとは「誰もが『あたりまえのように』過ごせる環境をつくること」をいいます。
たとえば、車椅子を使っている人は、段差を「あたりまえのように」通ることができません。車椅子を使っている人にとって、段差は「障害」となってしまうのです。この段差をなくすためにスロープを作ることもノーマライゼーションの1つです。
最近では、スロープを作れない場合に「ランプ」という、段差を解消するための板を用意する方法も用いられるようになってきました。
しかし、板を用意しただけでは段差はなくなりません。板を敷く人がいることで、はじめて段差を通ることができるようになります。
スロープや板という「物」の整備と、板を敷いてくれる「人」、それらが「あたりまえのように」揃っているまち…それが、「ノーマライゼーションという言葉のいらないまち」なのです。
自分が周りの人たちと違うこと、周りに自分たちと違う人がいること。
それを気にすると、人と人との間に壁ができてしまいます。
障がいや個性などを意識することのない、誰もが暮らしやすいまち。
遥かかなたにある理想郷のように思えるかもしれませんが、東日本大震災後、陸前高田市が目指している「ノーマライゼーションという言葉のいらないまち」は、日々の「はまかだ」を積み重ねることで、その未来図に一歩ずつ、確実に近づいています。
そして、そのまちは、「ほだし」と「きずな」を大切にしてきた陸前高田だからこそ、実現できるに違いありません。